ふじ城跡 Edit


 「ふじ城跡」ではないかといわれている所がいくつかあるのだが、もっとも有力なのは「城」の地名が残っているところ。大藤のちょっと北。
 本丸と思われる構造があり、今は「山ノ神様」と「鹿島様(大きいほう」の石造りの祠があってそこでは8月16日の夜部落世帯1人が出て「山の神の講」をする。
 空堀と思われるところが2箇所ある。それが、その北側に地名「堀切」として残ったと言われている。
 美麻八坂線からは木が大きくなって見えないし、想像もしにくいのだが、そこは相当見晴らしもよく、「見張り台」や「のろし台」の場所には充分になったと思われる。
 山城の時代の城は「華々しい戦いの場」ではなく、見張りや情報伝達の機能をもった場所で、「攻められたらさっさと逃げる!」と言った識者の言葉は説得力がある。

旧庚申跡 Edit

 小藤の上からのいり口の坂道を「おこしん坂」と言う。
 小藤の中心に観音堂があり、近年の庚申塔はそちらに建てられているが、それより以前のものがそこにある。
 
 そこには一字一石供養塔があり、「奉書写大乗妙典一字一石供養」と彫りこんであり、経典を一文字づつ一石に記して埋めたもので、道路改良の際に出土したこともある。

 日本回国供養塔は「奉納大乗妙典六十六部日本回国供養塔」と掘り込んであるが、札所めぐりか講で全国を回った記念に据えたものか、願主 信州二重村、恵蜜の記名がある。