発 行:ひょうすぼ社
発行人:佐藤理洋
e-mail:
riyoyoko@hotmail.com
創刊:昭和60年(1985年)6月15日

ご意見・感想等は発行人までお願いします。(^_^)  

乱杭185号(2004年7月17日)

◆太平洋戦争と私達◆

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 この表題の「私達」とは、我が母達、宮崎県立延岡高等女学校第38回卒業南組の人々のことである。

 母達は、終戦直前に女学校を卒業し、引き続き、現在も延岡市緑ヶ丘にある旭化成雷管(爆薬の着火器(機?))工場で、20ミリ機関砲弾を作る女子挺身隊として働いた。
 そして、その年の8月15日以後、工場はストップ、皆、てんでんばらばら、何処へ行ったやら行方不明者だらけとなった。

 その母達が、卒業40数年後、還暦を迎えるにあたり、その同級生を一人一人探し出して、
1.卒業記念文集に替わるものを作ろう。2.果たせなかった修学旅行をしよう。と決めた。

 およそ3年の歳月を費やして昭和63(1988)年6月14日出来上がった「卒業記念」文集が、冒頭の「太平洋戦争と私達」である。

 そのことは、同年6月24日発行のまだ手書きの頃の「乱杭41」に書いた。(↓)

 また、ご高齢の先生お二人の参加も得て、京都への修学旅行も実現させた。立派と言うほかはない。

 

延岡市立図書館に永年保存

 乱杭182に、職場研修で「著作権」のことを学んだ話を書いた。実は、この時の講師は、延岡市立図書館司書のKさんにお願いした。

 その講義の最後に、Kさんは「図書館の機能」についても触れられ、「保存しておきたい資料があれば3部、図書館へ寄贈してください。1部は開架閲覧室に置いて一般の閲覧に供します。残りの2部は、予備と保存用とし、そのうちの1部は、地震が来ても、火事にも、水害があっても絶対大丈夫、湿度・温度もしっかり管理してある保存庫で永年保存します。」と、図書館の資料保存機能について説明してくださった。

 これだ、と思った。早速その話を母にしたら、「いいことを教えてくれた。直ぐに同級生に話して、了解が得られれば、新刊同様のものを揃えて、図書館に寄贈するは・・・」























 7月7日、母達延岡女学校第38回卒南組生の、昭和20年6月29日、延岡大空襲の体験談を中心に、その他、戦中の苦しい体験、中には満州・朝鮮からの命からがらの帰国体験などを綴った卒業40数年後の「卒業文集」=「太平洋戦争と私達」3部が斉藤修一同館館長に寄贈された。(写真↓)

 その後、斉藤館長の計らいで、その文集が保存されることとなる「地震が来ても、火事にも、水害があっても絶対大丈夫、湿度・温度もしっかり管理してある保存庫」を母達は見学させていただいた。(↓)

 同時に斉藤館長の案内で、同館ロビーで開催中の「『戦争の記録』の記録=平和記念資料展」の「従軍カメラマン小柳次一の撮った戦争」写真を鑑賞し、感慨無量の様子であった。特に鹿児島知覧飛行場を飛び立つ特攻隊兵士の写真には、「この年で命を散らして・・・」と言葉も途切れがちであった。

 母は、先の保存庫を出て開口一番私に、「あー、これで安心した。何時死んでもいい・・・。」

ウッソーツ!!!

 母達が、私達戦争を知らない後の世代に伝えたかった、到底筆舌に尽くしがたい、苦(にが)く苦しく、また「なぜ反対できなかったのだろう。」と悔やんでも悔やみきれない戦争の苦渋に満ちた体験を綴った文集が、長く保存されることになり安堵したのであろうが、「これで、何時死んでもいい。」はないもんだ。

 こんな機能が図書館にあることを知らせた私は、貴女の生存願望を奪ったことになるではありませんか。

 牧水ではないが(*)、何時までも、長く長く生きて、戦争の惨禍、青春を奪う暴虐、遺族の悲しみなどなど、平和な時代に育った我々がどれひとつとして知らない事実をその生の声で我が子や孫に伝えて欲しいと願います。

 * お隣の トラオジヤンにもの申す

   長く長く生きて お酒飲みましょう(牧水)

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