青艸(佐藤理洋)の
身勝手「野鳥歳時記」

発 行:ひょうすぼ社
発行人:佐藤理洋
住所:
北緯32度32分29秒 東経131度40分39秒
e-mail:
riyoyoko@hotmail.com
創刊:2000年11月創刊

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青艸(佐藤理洋)の身勝手 野鳥歳時記(64)(2005年12月23日)

◆青艸父子を指標として、近代日本洋画と我がDNAを考える◆

 なんのこっちゃ?分けん分からん・・・、てな調子で今回もお付き合いの程を・・・。

須田国太郎展

 2005年11月1日から12月18日まで、京都国立近代美術館で「須田国太郎展」が開催されていた。

 昨年末に亡くなった義父の一周忌が12月18日に岡山であり、その途上に行こうと思って、絵画好きの父に「行きませんか。」と誘いの電話をしたら「俺は、須田の絵はあまり好みではない。」と素気無く断られたため、法要への往路に一人、京都まで足を伸ばして同展を観た。たまたま、その日は、須田の45回忌という日であった。

 須田国太郎という画家は、皆さんご存知だろうと思うけれども、加えて私の記憶に間違いがなければ、戦後間もなく開かれた第1回宮崎県美術展の審査員だったと思う。
 そして、その時の特選は確か、今は亡き奥様が「日本野鳥の会宮崎県支部」の母体となった「宮崎野鳥を守る会」時代からの会員で、ご本人は、先ほど宮崎県立美術館において、貨物船で戦地に送られる軍馬の象徴的な姿を描いた多くの大作を発表された坂本正直さんだったと記憶する。

 私が須田の絵に初めて触れたのは、昭和43(1968)年、高校の美術の教科書に掲載されていた、彼がスペイン留学中に描いた風景画「アーヴィラ」だった。
 こんな風景画の技法もあったのかと、それまでフランドール派や印象派などの風景画しか知らなかった私は、衝撃を受けた。

 以来、私は須田国太郎という画家のファンになった。10年以上前、なにげなく入った東京上野の国立博物館の一室に、思いもかけず須田の作品が集中的に展示してあり、感激した記憶もある。

 京都国立近代美術館で開催された同展の第一展示室の最初の作品は、くだんの「アーヴィラ」だった。会場へ入るやいなや「アーッ」とため息が出て懐かしい恋人に会った様な感傷に浸り、しばらくは、その絵の前から離れることができなかった。

青艸父子の異なる好きな絵画傾向

 私の父は若い頃、美術学校進学が希望であったらしい。私も中・高校生の時分、美大へ進学したいと思った。(社会人になって数々の展覧会を観て来て、今は、到底勝てない、よくぞ美大進学を断念した、と合点している。)

 そして父は、高校の数学教師になって79歳の今日も未だに教鞭をとっており、私も、美術の道からは大きくそれた人生を歩んでいる。ただ変らないのは、二人とも、今もって絵画好き人間ということだろう。

 30年くらい前に、父と一緒に倉敷の大原美術館へ行った折、梅原龍三郎の絵の前で「うまいなーぁ」と父が唸った。

 そう言えば、今でも時々手にする筆で父が描く水彩の風景画は、色彩豊かな瑞々しく若々しいものである。 

 正直に言いますが、父の絵は実に味がある!上手い!勝てない!

 その時のあの唸り声から、父の好みは、「梅原龍三郎」と見た。

 一方の私は、1968年以来、誰の絵が一番好きかと問われたら、迷わずに「須田国太郎」と答える。

 私は、梅原の絵が決して嫌いではないけれど、須田の絵により強く引かれる。

 当時のわが国の画学生がこぞってフランス、取り分けパリへ向かったのに対して、須田は、東京美術学校へも行かず、京大の美学美術史科へ進み、学問として美術を修めた後に、スペインへ留学してマドリッドのプラド美術館へ通いつめ、漸く館長の許可を得てゴヤなどの作品の模写をして伝統的な西洋絵画の技法を徹底的に学んだことからして異色である。




































 同展の会場でもとめた展覧会画集の冒頭に、京都国立近代美術館学芸課長の島田康寛さんが書いた「須田国太郎の道」の中に、菊池一雄氏の驚くような次の文章が引用されていた。
曰く、須田氏の飽くまで油絵の本道を踏み外すまいとして、あゝでもない、かうでもないと、描いては消し、消しては描きして漸く辿りついたやうな仕事には、氏のごまかしのない誠実さと、その一面に於ける野暮ったさと、高い教養によって十分手綱を引き締められた逞しい情熱が感ぜられるのに対して、梅原氏の日本の油絵はかう云うものだと、大胆不敵に決めてかゝつた明快さで、感情の盛り上がるのにまかせて描くものは、確かに豊麗である。
 前者が恒に否定的であり、疑いを残し、未完成のものを持続けるのに対して、後者は恒に肯定的であり、その時なりに、完成の形を具えてゐる。

 本文を読んでいて、同じDNAを色濃く受け継いでいるはずの親子にして、私達父子は、このように表現様式の大きく異なる画家の絵をそれぞれの好みとするのは、人間という生き物の面白さだろうか、と言ってお仕舞いにしてしまうのには、余りにもかけ離れていすぎるような気がして、複雑な心境だった。

 ところで、須田が仕事場近くの岡崎の京都市立動物園に通って、たくさんの動物達のデッサンや油絵の習作を残したことは有名である。

特に鳥類の絵が多く、そのような日頃の観察から、(↑)写真「隼」も生まれたのだろうと思う。他にも有名な作品として、「歩む鷲」
(1940:東京国立近代美術館)や、
「鵜」(1952:京都国立近代美術館)
などがある。それらを今回、残らず全部見ることができて、この上もない幸せな心地であった。

 翌日、空路大阪入りした父母等や、京都・大阪でデザイナーやアニメーターの修行をしている従兄弟、甥など我が親族とJR大阪駅前で合流し、私が学生時代を過ごした大阪駅にはなかった駅ビルの高層階のレストランで、共に、父お好みの中華料理を洗いざらい堪能して、岡山の義父の一周忌会場へ向かったのだが、「須田の展覧会は、どうだったか?」との問いは、ついぞ父の口からは発せられなかった・・・。

幽玄の世界

 私の体には16分の1だか、32分の1だか、関西の血が流れているらしい。母方の父(祖父)の、そのまた父(曾祖父)が大阪の人であったと聞いている。だからかもしれない、(母方の)私自身、兄弟、従兄弟、子、甥姪に至るまで、進学や就職に際して関ヶ原を越えようとした者がいない。かえって、好んで関西へ行こうとする。(このことは、いつか以前に「乱杭」に書いた。)

 ところで、識者によれば、須田はテンペラを下地に使い、その上に油絵の具を乗せるという独特の技法で、日本の伝統的な美を表現しようとしていたのではないか、と説く。

 表現しようとした日本の伝統的な美とは、所謂「幽玄」の世界である。

 今月、日本経済新聞の最終ページに連載中の、人間国宝で関西観世流能楽師の重鎮、かつ「延岡城址天下一薪能」の第1回からのシテ方、片山九郎右衛門さんの手記によれば、九郎右衛門さんの先代が、たっての依頼をして自身の能の絵を須田に描いてもらい、大切に片山家に保存されている由。

 同展の会場にも、これまで私が知らなかった「能楽」の珠玉の油絵(「野宮」、「大原御幸」など)やクロッキーが展示されていた。

 今回、同展を観た後、そのまま公共交通機関に頼らず、ぶらぶらと美術館を出て琵琶湖疎水を渡り、観世会館の前でぼうーッとしてそれを眺め、東大路を下って白川沿いを四条まで歩いて来たのはなんだろう。

 よく分からないのだけれども、父と違って梅原よりうんとくすんだ感じの須田の作風が好き、東京より、京都・奈良・大阪が好き、巨人より阪神タイガースが好き、自民党より、おっとっと・・・、これはなし、そんな屈折した関西派のDNAが働いているのかもしれないと思った。

 

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