発 行:ひょうすぼ社
発行人:佐藤理洋
e-mail:
riyo@ma.wainet.ne.jp
創刊:昭和60年(1985年)6月15日

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No.108 乱杭(2001年1月20日)
◆300年前の乱杭◆

 1月18日、市道本小路通線の拡幅工事に伴う「延岡城内遺跡発掘調査」を行っている延岡市教育委員会は、その第5次調査第2次発掘調査現場から「道路下を抜ける暗渠(あんきょ)遺構と、石垣で築かれた内堀を初めて確認した。」と発表した。

 内堀は、延岡城が築城された1603年以降に造られたものとみられるが、正確な年代は不明だそうだ。ただし、1750年に記された「日向国延岡城石垣築直堀浚之覚」には「堀幅4間半(約8.1m)」と記述があり、250年から400年前の遺構と推定されている。

 実は、私の職場は、市道本小路通線拡幅工事のための用地買収を担当していて、既に用地買収や家屋移転が済んだ個所で進められている文化財発掘調査の現場を目にする機会が多かった。

 昨年末から始まった上記発掘調査の現場も最初から見ており、内堀や暗渠が出てきたことも知っていた。同時に、その内堀と暗渠の接合点付近の内堀跡の中に、数本の「乱杭」が朽ち果てることも無く出てきたことも見ていた。

 

 1月15日、発掘の指揮を執っている市教委文化課の緒方農一君に頼んで、右の写真を撮らせてもらった。その時、緒方君曰く「ありゃ、何ですか?なんで写真を撮んなっとですか」。私「・・・。(緒方君には申し訳ないが、よもや文化財の専門家からそのような質問が飛んで来ようとは思いもしなかったので、即座には返答に窮した。)」

「話せば長くなるから、あんたのe-mailアドレスを教えない。一発で事情が分かるものを送るわ!」と言ってその日の夜に「乱杭No.107」を送った。

 彼からの返事は、「メールありがとうございました。疑問の一つは解決したのですが新たな疑問。この乱杭は、どういった新聞なのですか?」

さすがは学究。探究心が旺盛でいらっしゃる。私の返事は「屁のようなものです。」









 上の写真の乱杭は、どんな人が何の目的でこの場所に打ったのだろう。そのように想像力をたくましくしてみると、なおさら、長い年月に耐えたこの「乱杭」がいとおしくてたまらなくなってくる。

この乱杭の右手に「内堀の石垣」、左手に「暗渠」がある。手前に白くひょうたん型に見えるのは、やはり地中から出てきた他の「乱杭」の頭部に張り付いた氷である。


◆お餅の正しい食べ方◆

 焼き餅の食べ方について、乱杭No.107で延岡市中央通りの山下紀子さんちの食べ方(砂糖を溶かした醤油にチョコチョコつけながら食べる。)を紹介したらこれにも反響があった。

 先にご紹介した市教委文化課の緒方君からは「ちなみに私の実家(といっても緑ヶ丘ですが)も砂糖醤油(もちろん砂糖多めで)でお餅を食べてました。」

 山口県光市出身の向田さんからも「山下さんがお餅を砂糖醤油で食べるとおっしゃってましたが、我が家も同じです。私もこの食べ方が普通だと思ってました。普通じゃないんですか???」

さて、我が家のお餅の食べ方、と言うより、現在75歳になる我が父(宮崎市木花出身)の食べ方をご紹介しよう。







 父は、好んでご飯茶碗に焼いた2〜3個の餅を入れ、そこに少々の塩を振りかけて熱いお茶を注ぎ、餅をお箸で柔らかく突き崩して茶漬けのようにして食べていた。他にも、焼いた餅をお湯に浸して柔らかくし、砂糖をかなりどっさり混ぜ込んだきな粉にまぶす、いわゆるアベカワ餅の食べ方も好んでいた。更に、山下さんちの「砂糖醤油チョコチョコ浸け食べ」は、母方の人たちがやっていたように思う。実際、私自身、そうやって食べさせてもらった記憶がたくさんあるのだが、左党のため、現在はもっぱら単純に醤油に浸けて食べる。

 因みに、妻の実家からは、毎年、この辺りではあまり目にすることがないもち米に小豆を一緒に混ぜたお餅が送られてきて、最初はびっくりした。

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