発 行:ひょうすぼ社
発行人:佐藤理洋
e-mail:
riyo@ma.wainet.ne.jp
創刊:昭和60年(1985年)6月15日

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00000000No.113 乱杭(2001年4月30日)

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Here's a cool technique!この写真は、今月8日に結婚50周年、つまり金婚式を迎え、その前日4月7日の夜に宮崎市青島の太陽閣で家族が開いた金婚を祝う会の席上あいさつをする両親である。父常安(大正15年生、75歳)、母嘉子(昭和2年生、74歳)。彼らが結婚したのは、昭和26年4月8日。翌年10月には、私が生まれている。ずっと以前、たぶん自分が高校生の頃、母の古いアルバムの中に、宮崎大学学芸(今の教育文化)学部自治会と大書された看板の下で、他の学友と一緒に両親が記念撮影に収まっているセピア色に変色しかかった写真を見たことがある。ああ、自分の両親はこうして知り合ったんだなあ、とその時漠然と思った。
 それから、随分時が経って、宮崎市木花の父の実家であった誰かの法事か、または父の兄弟姉妹の家族が大挙して集まって開かれていた正月の「兄弟会」の後のお茶の会かで、父の妹が私に「理(みち)さん、









あんたがよ、嘉子姉さんのお腹ん中におっ時、常安さんな結核に罹患(かか)りゃって、赤江ん国立療養所に入りゃることになったっちゃわ。あん頃結核て言えば不治の病でよ、入院しやっ時きゃ、常安さんの布団やらなんやら、みんな爺ちゃんが燃やしゃったつよ。常安さんが元気になって帰ってくる保証もないもんじゃから、私たちゃ(父の妹達)、嘉子姉さんに『赤ちゃんを堕しない。』って言うたっちゃが。じゃけんどん、絶対嘉子姉さんな、首を縦に振りゃりゃんかったど。」

以来、私は、結核の特効薬である抗生物質「ストレプトマイシン」を’43年に土壌中の放線菌から発見したワクスマン博士に感謝し、かつ母のイエスマンになった。


延岡時代の我が家

 金婚式のお祝いをした日の前週の日曜に、弟潤一郎が宮崎からやって来て「お祝いに贈る記念ビデオの撮影に付き合ってくれ。」という。彼が幼少で知らない、両親の延岡時代の思い出の場所を案内してほしい、と言うのだ。
 昭和32年4月、父は退院後勤めた日南市立油津中学校から延岡の県立向洋(現延岡工業)高校へ、母は、この間自分の家族である紙田家の人々と私とで過ごし勤めた日向市の冨高小学校から、延岡市立東海小学校へ転勤となり、私達は初めて家族そろって一緒に暮らすこととなった。その時の借家が、延岡市古城町の右の写真の左側の家である。、ここへ来て見て、よくぞ残っていてくれたと懐かしく、感慨も一入(ひとしお)であった。結局、この家は、我が家族の新生活の再出発点であり、両親にとっては、私と言う瘤(こぶ)付きながら新婚生活のやり直しの時であったのだろう。その頃は、夫婦喧嘩の末母が父に投げた財布が私の目の前を飛んだり、落第しそうな高校のお兄さんたちが夜勉強に通って来て勉強が終わった後、家の前の路地から









Here's a cool technique!ソビエトが打ち上げた人工衛星スプートニクを皆で探したり、近所の用水路で蛍狩りをしたり、奥に見える愛宕山に父と登ったり、思い出せば楽しい日々であった。
 その後、1キロも離れていない恒富町の借家に移り、昭和39年に、現在私が住んでいる塩浜町の我が家に引っ越した。それまでの借家には風呂がなく、「春日湯」という銭湯に通ったが、母によれば、自宅を持とうと決意した大きな要因が「自宅で風呂に入りたい。」だったそうだ。公営住宅やワンルームマンションにすら風呂がある今日、現代の人たちには理解しにくい「持ち家取得」決心の要因ではないだろうか。おかげ様で、我々は、新婚以来、「家付き、ババ抜き。」の生活を送っている。

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