今回の日程、行程は全部父任せであった。それは、そうすることで、父が私に伝えたい韓国の歴史や文化に、正しく接することができるだろうと思ったからであり、また韓国についての知識も乏しく、ここに行きたい、あそこを見たいという希望も特になかったからだ。
ただし、「明日は、何処どこへ行こうと思う。」と父から言われると、そこを地図で確認し、例の「地球の歩き方」を開いて「お父さん、そこには『何々(例えば後に述べる国立民族博物館)』があるから、そこにも行こうよ。」と言った脚色は私もした。
その提案に従って、2日目、前述李尚美さんに、景福宮(キョンボックン)への順路を確認し、「歩いたら随分かかりますよ。」との忠告を父は無視し、2人で朝のソウルの南北のメインストリート、太平路とそれに続く、李瞬臣(豊臣秀吉の朝鮮侵攻を打ち破った韓国の英雄、だったと思う。)のでかい銅像が建つ交差点を過ぎて世宗路を歩いて行った。
これは、父の判断が大正解だったと思う。なぜなら、やはり、歩かないと目に入らない、そして触れることができない空気と言うものがあるでしょう。
途中は、韓国の政治・経済の中枢部の一角を占め、例えば「ナショナル・トレードセンター」や「東亜日報本社」「アメリカ大使館」など様々な建物がならび、その前を「おい、俺は年寄りなのだから、もっとゆっくり歩け!」と度々抗議する父を引きずって、韓国の実像の一端に触れながら歩くことができた。
厳戒アメリカ大使館
この散歩でもっとも印象深かったのは、アメリカ大使館だ。入り口には二重のゲートが設けてあって、武装警官が厳しい警備をしていた。 我々2人が丁度前を通りかかった時にバイクでやって来た新聞配達のアンチャンは、入り口の外で厳しくチェックされ、外側のゲートを入って、またチェックされていた。
父は、何を思ったのか、その様子をビデオに撮ろうとして、警備の警官に撮影を制止された。左の写真は、次の日(20日朝)に青瓦台へ向かう途中で、同じところを通った際に、タクシーの車中から写したものだ。この時も、カメラを構えた車中の私を睨んでいる警備隊の指揮官らしい警察官の姿が写っている。
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景福宮
景福宮は、李朝朝鮮を起こした李成桂(太祖)が1394年に建てた王宮だそうだが、朝鮮を植民地とした時代の日本が随分これを破壊し、かつ、後の朝鮮戦争で、決定的に壊されたようだ。
しかし、今ではこのように随分修復されていた。
それよりも、これは有名な話だからご存知の方も多いと思うけれども、植民地時代に我が国は、韓国民にとっては大切なこれらの遺跡を目隠しするように、ここの前面に巨大(尊大?)な朝鮮総督府庁舎を建設し、そこを拠点として朝鮮半島を植民地として支配、統治した。
その建物は、現在は跡形もなく取り壊されているが、我が国の戦後に置き換えて考えてみよう。つまり、連合国占領軍が、皇居が見えなくなるようなGHQビルを新たに作らず、そのトイメンの日本生命ビルを接収して、そこに本拠を構えたことと比較して考えてもらいたいのだ。
実は、景福宮内の国立博物館の中央ロビーには、とてつもなく大きな同宮の立体模型が2基並べて置いてあり、そのひとつは創建当時のもの、そしてもうひとつは、朝鮮総督府が前に建てられている「日帝」時代(*)のものであった。
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ソウルの色々な史跡の案内文には、日本語の解説文が設けられているところがけっこうあった。それには、植民地時代の我が国のことを「日本」とは表記せず「日帝(大日本帝国または日本帝国主義の意味と解した。)」と表記され、今の日本とは、明確に区別してあった。
韓国の人々は、徹底してこれらの歴史を後世に正確に伝えようと、大変な努力をしているように思えた。その証拠に、明らかに保育園児か幼稚園児と思える幼い子どもたちのグルーから、中学生くらいまで、各年齢層の、そして驚くほどたくさんの見学の子ども達の団体にそこで出くわした。
読者のみなさん、我が民族は、他民族を支配・統治することがひどく不得手な人種であるように思われませんか。もう二度とこのような過ちを犯すことがないよう、我が民族の資質を自身で正しく理解し、なおかつ犯した過ちを正しく私達の子孫に伝えていく努力をする義務があるのではないでしょうか?
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景福宮の広大な敷地の中には、前述の模型のあった国立博物館と、国立民族博物館が左と右に分かれて設置されていたが、後者の展示で興味深かったのは、かなり広いスペースが割れていた「韓国人の一生」と名づけられた展示であった。
この展示は、簡単に言うと、同国の人が誕生するとこのような祝いの行事があり、1歳の誕生日(実際は韓国は数え年だから2歳)にはこのようなお祝いがあり、学齢期にはこのような生活で、そして結婚式(翌日20日に実物を見た。)はこのようにし、60歳の(誕生年の干支が5回りしたと言う意味で「お里帰り的な大切な)お祝いはこう、そしてお葬式はこう、墓はこう、と人生の区切り区切りの風習を具体的に展示して、韓国の風俗習慣と心を伝えようと試みた展示であった。
例によって、それを父の説明付きでのろのろと見学していると、大勢の小学3年生くらいの集団に追いつかれ、彼らは私達二人を次々にパスして行っていたが、ある時父が私に展示物の説明を始めたところ、前日の南山の出来事と一緒で、我々のそばにいた男の子が、ギョッとした顔で我々の顔をまじまじと見つめた。私は「アンニョン・ハセヨ」とその子に言葉をかけたが、足早に彼は去っていった。
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