今から遡ること33年前、私が高校2年生であった1969年7月に、所謂「修学旅行」というものがあって、我々の一行は行程のある日、東京竹橋の毎日新聞社本社を訪ね、そのまま近所の国立科学技術館で見学、昼食となった。事前に調べていた私は、昼食もそこそこに、次の集合時間を確認した上でその科学技術館を抜け出し、ただ一人、隣接する「国立近代美術館」へ走り込んで「美術の教科書」でだけ見知った我が国の近代・現代美術の珠玉の作品群に直かに触れた。
(16歳の少年の)その時の感動を文字で表現する術を今でも私は知らない。ただ一点一点が、その前を立ち去りがたく、好きな作品に見入っている、その時間の過ぎ行く速さ、はかなさをその時に初めて知った。
「修学旅行」から帰って、その感想や意見のアンケート調査があったので、生意気盛りの私は、「皆が飯を食ってグダグダ無駄口を叩いていた科学技術館の直ぐ隣に、我が国近代絵画史の至宝を集めた国立近代美術館があったではないか。自分はこっそり抜け出し、その作品群を駆け足ではあったが全部見て感動した。物見遊山ではない、もっと有意義な修学旅行をしたらどうか!」とアンケートに書いた。
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私のアンケートの回答が原因となったかどうかは知らないが、翌年から、我が高校の修学旅行は、上野公園内の美術館・博物館郡や、動物園が選択日程になったらしい。
さて、先日訪れた西洋美術館は、開館直後に行ったためだろうか、まだ来館者は少なかったが、その先にある国立博物館の「平成館」で開催されていた「横山大観展」は、押すな押すなの行列が出来、大盛況であった。
ところで私は、ゴヤの「巨人」の何を見たかったのか。下の画面では小さすぎて、ほとんど分からないと思うが、ゴヤはこの絵の中で「巨人」が踏み出した左足の腰の3センチほど下に「巨人」の出現に驚き逃げ惑う牛や人々の中に呆然と立ち尽くす白いヤギを描いている。一説によれば、逃げ惑う人や家畜は、当時の民衆社会の混乱を、そして立ち尽くす「ヤギ」は近代の到来に思い惑うゴヤ自身を表しているという説があり、新しい時代の到来の嵐の中で取り残されようとしているゴヤ自身の愕然たる不安をヤギの姿に託して描いている、と解説されてる。
このヤギこそは、「IT革命」だの、「構造改革」だの、「終身雇用制度の崩壊」だの、我々が置かれている渦巻きのような旧世紀制度の崩壊の流れの中の我々自身の姿なのではないか、そう思えて、ぜひ見て見たかったのだ。絵を見た結果は、どうであったか。 言わぬが華・・・。とまれ、この絵に感動した!
さて、現代とはどのような時代なのだろう? せめて、21世紀を生きる人々にとって、現代が過酷な時代ではなく、希望に満ちた明るい時代であることを願わずにはおられなかった。
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