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といいましても、もともとコンピューターなど大の苦手のアナログ派。1年前に遊び半分で始めたメール送受信の知識レベルでは役に立たず、海外に詳しい人に尋ねても堂々めぐり。変圧器ひとつをとりましても「いらない」と太鼓判を押された次の瞬間「ドライヤーやひげそりなどは変圧器は要らないけどパソコンのような微小電力で動くものはないと危ない」と切り返され、メーカーに問い合わせると「日本以外での使用は保証致しかねます」。深みにはまるばかりでした。提携している通信社の支局もワシントンやニューヨークにしかなく遠すぎる。 佐藤理洋さんは、そんなわたしの様子を察知して「延岡市のためになることですから」といろんな人やHPを紹介していただいたり、在米の友人に質問を取り次いでいただきました。特に7月は毎日のようにメールでアドバイスをいただきました。自分のことのように心配してもらったこと、感謝しています、というよりうれしかったといったほうが近いと思います。おかげでいろんなこと、人を知りました。 もう一人、強い味方がいました。わたしと同じバス・パートのメンバーで、「第九」を歌う会事務局長の堀田宗範さんです。 |
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堀田さんは延岡市役所情報管理課に勤務し、市のHPを管理しておられるこの道のベテランです。休憩時間に雑談していましたら、堀田さんは現地からHPに速報を送りこむ算段をされていました。わたしとまったく同じ課題を抱えておられることが分かり、「どっちかうまくいった方でいきましょう」(堀田さん)ということになりました。話としては「どっちか…」なんですが、彼とわたしでは知識量、経験が雲泥の差。「こりゃしめた」と思ったのはもちろんわたしです。それからというもの、わたしは堀田さんに会うたびに「堀田さんの通信がうまくいくかどうかにすべてがかかっていますからね」と冗談(わたしは本気)を言って、次第にその気になっていただきました(わたしの思い込み)。 プロバイダーは、わたしの使っているTikiTikiは海外ローミングサービスがないのでniftyと契約しまた。念のためAOLにも入ろうとしたのですが、そのインストール作業の途中に不具合が発生し、出発直前になってあやうくパソコンが死にかけましてやめました。 |
現地到着の初日、ホテルの部屋に入るなり電話をチェックすると、さすがアメリカ、部屋にはモジュラージャックが机に供えてありました。ひとまず安心して原稿を書いていると堀田さんから「大変な部屋に入た。セキュリティが厳しくて他の人は自由に来れない」と電話。わたしは7階、堀田さんは12階。11階以上に行くにはその部屋のカードをエレベータに差し込まないと上がれないというのです。 わたしはたいして気にもせずに原稿を書き上げ、写真を選んで通信の態勢をとりました。形としては完璧です。パソコンに現地(ボストン)のアクセスポイントの電話番号などを手順通りに入力し、通信設定を終えました。ところがここで、日本から持ってきたモジュラーチェック装置を、備え付けのモジュラーにセットしてみると、点灯しなければならないはずの青ランプがつかないのです。ということは回線が生きていない、接続しても発信できない。 それから毎晩、原稿を書き上げて、写真を取り込むと、深夜の午前零時−1時に堀田さんの部屋通いということになりました。はっきり言って、わが社の紙面に記事が掲載できたのは堀田さんの通信のおかげです。 もうひとつ、出発前から心配だったのは、演奏会本番の日の原稿送信時間の問題でした。予定では、演奏会が始まるのは午後7時。終わるのは8時40分。9時からフェアウエルパーティが始まり、終わるのは10時半。
ホテルに帰りつくのは順調にいって11時すぎ(日本時間正午すぎ)。それから記事を書いて写真を選び、整理して送ったのではとても締め切りに間に合わない、ということでした。そこで、総合文化センターの渡辺行守さん(「第九」メドフォード公演実行委員会事務局長)に「演奏会の会場から送れるようにできないでしょうか」と相談しました。 すると、渡辺さんは英語に堪能な市総務部の山本武之さんを通じてタフツ大学とかけ合い、大学はステージのすぐ下まで電話回線を引っ張ってくれました。この点にかなり配慮したらしい大学側は、演奏会本番の日、早く来てテストしてほしいという連絡をわたしたち230人が団体で昼食中に入れてきました。堀田さんとわたしは一足先に大学に向かうことになり、この時、ステージ衣装の上着をバスの中に置いたまま行ったのでした(佐藤理洋さんの書かれた「ステージ衣装を持って行くことすら忘れて」を修正させていただきます)。 会場からの送信も堀田さんに“一任”致しました。テストはなかなかうまくいきませんでしたが、大学側が接続回線の番号を何度も調べ直して、ようやくリハーサル(ゲネプロ)直前に通じました。リハーサルにはビデオカメラを持って最後にステージに入り、入口付近でカメラを回しながら歌いました。「フロイデ」から「ゲッテルフンケン」まで切らないまま、通しで歌いましたので、素晴らしいソリストの表情や歌声を横から撮影でき、珍しい記録になったとわれながら思っているところです。(佐藤理洋さんの「リハーサルには姿を現されなかった」を修正させていただきます)
やばい、時刻は午前零時。日本時間では午後1時。夕刊の締め切り時間。部屋から日本に電話をするけどなかなかつながらない。というわけで、堀田さんに電話すると、彼は「話すほうはつながらないけど、通信回線はつながった」「じゃあ、HELP!」。堀田さんが7階まで降りてきてエレベータで落ち合い、一緒に12階へ。
リハーサルが終わったころまでは、自分も当然、ステージで歌うつもりでした。そのために練習してきたし、撮影の手配もしてきたし、歌わないという発想はまったくなかったのです。ところが来場者が次第に増え、現地関係者、会場の模様など取材に動き回っているうちに、食事や着替え、練習、注意伝達など団員の団体行動と一緒に動けなくなってしまい、だんだん「これはステージは無理かな」という気がしてきました。客席が埋まっていくにつれ、もっと多くの人の声を聞いておきたい、会場の状況も記録しておきたいし、終わった直後の反応や拍手の様子、感想も記録しておきたいなどと欲が出てきました。そして最後に 気付いたのは「終わってすぐに会場から記事を送るのに歌っていては間に合わないではないか」ということでした。 「歌わない」と決めたのは開演15分前でした。急いで控え室に行くと、バス・パートがちょうど立ち席の調整をしていましたので野上敏治先生に「わたしはステージに上がりませんので詰めて下さい」と伝え、ふっきれた気持ちで仕事に戻ったのでした。結果的に、歌うのをあきらめたのはよかったと思っています。その時はメモするのも忘れていたのですが、後でデジカメの記録で調べて見ますと、開演は20分遅れの午後7時20分、演奏が終わったのは、午後9時3分でした。時間は押していたのです。演奏が始まるとわたしは2階の観客席に上がり、三上次郎作曲「管弦楽のための『遥かなる幻影』」から「第九」の1−4楽章をビデオに収録しながら、階段にすわって記事を書いていました。
せっかく準備していただいたステージ下の電話回線でしたが、ここから中途半端な記事を送ってしまうと、製作現場は一刻も早く原稿が欲しいので中途半端な紙面になり、翌日用に続報を書いても迫力がない、締め切りに厳しくなってもホテルで書き直してから送ろうと思ったのでした。 というわけで堀田さんに「ホテルに帰ってから送ります」と伝え、バスに乗り込んだのでした。その夜、ホテルでは千ドルパーティが開かれたのですが、ここでも堀田さんを部屋に足止めし、迷惑をお掛けしたのでした。 その夜は堀田さんの同室の柳田啓志先生にわたしの7階の部屋まで迎えに来ていただき、お二人には大変ご面倒をお掛けしました。柳田先生に「二人とも自分のためでなく延岡のためになることをしているんだから頑張ってください」と言われ、机やいすを配置してしてもらい、その言葉がなによりの励ましになりました。 深夜、部屋に戻って、パーティ会場からもらってきたという一本のビールのうまかったこと。そして、ロビーで出会った渡辺さんの目が喜びの涙でうるんでいたことが忘れられません。本当はもっと名前を出してお礼を言いたいたくさんの方のご協力をいただいたのですが、この場をお借りしてお礼申し上げます。 佐藤理洋さん、思いがけず、わたしのことを「乱杭」に紹介していただきありがとうございました。ただ、わたしはこんなにたくさんの方々の世話になってメモリアルな仕事をさせていただくことができましたということをお伝えしたくて長々と書いてしまいました。長すぎるこの投稿を使っていただけるでしょうか。 (了)
第4楽章が終わるころ、再び下に降りましたが、鳴りやまない拍手と歓声を聞き、心地よい興奮の中で間もなく始まったフェアウエルパーティを取材し、聴き終えた人の感想を聞いているうちに時間が経過し、その分の記事を書く暇がありません。むしろ、記事の文調そのものを書き直さなければなりません。そこで、もう一回、予定を変えることにしました。それは「ここから記事を送らない」ということでした。