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日本人のあなたに伝えたい!!! メンドシーノの素敵(小田空野著)
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まずは、この冊子の目的を。 Edit

 アメリカ合衆国カリフォルニア州、Mendocino(メンドシーノ)を訪れている日本人のあなた、もしくはメンドシーノに興味のある日本人のあなた、この本はあなたの為に、2006年から2007年メンドシーノに留学していた一人の女子高生が作成しました。
 目的はずばり日本人のあなたにメンドシーノの素敵な所を少しでも知ってもらうためです。
 この冊子には、メンドシーノの歴史、それに伴って今は観光場所となっている家、お買い物情報、ヘッドランドの様子、地図などがあります。
 来るだけで楽しめるMendocinoだけど、楽しみにはそれなりの知識も必要です。この冊子がその知識のお役に立てれば、作者としては本望です。
 なるべく解りやすく訳して歴史や観光場所の紹介をしたつもりなのですが、なにせまだ十六の小娘が作ったものですので、時々間違った日本語や間違った訳し方をしているかもしれないです。けれどどうぞそこは見逃してやってください。
 この冊子、そしてなによりメンドシーノをお楽しみあれ♪

1.Mendocino の歴史&観光場所 Edit

〜 先 住 民 〜 Edit

ヨーロッパ人がやってくる前の約8000年間、メンドシーノ地域にはインディアンが住んでいました。彼らはPomo Indians(ポモインディアン)と呼ばれていますが、実際、ポモとはインディアンの言語の中で『人間』という意味をさします。ポモインディアンは、メンドシーノ地域の中で12の独立したグループに分かれて住んでいました。グループはそれぞれの領土を持ち、大体一つか二つの入り江と分水嶺を限定されて持っていました。それぞれ少しずつ異なった言語を使い、異なった習慣や信仰、リーダーを持ち、ポモに加える形で明確に区別できる名前を持っていました。初めてこの地にヨーロッパ人が現れ、それぞれのグループの名を聞いたとき、全て終わりが『Pomo』であったため、例え彼らが違う生活をしているにしても、『ポモインディアン』と呼ばれるようになったのです。
彼らは平和を好む人々でした。この辺りは恵まれた自然環境であったため産業はあまり発達しませんでしたが、とても豊かな生活をしていました。
 1855年までに開拓者であるジュロム・フォードやウィリアム・ケリーは、インディアンを雇い、エリザ・ケリーは日記の中で先住民のことを『信用のできる、忠実な友達』と言っていますが、たった3年後メンドシーノがはっきり存在していくにつれ、先住民のインディアンと開拓移民との間で問題はいくつも起こりました。先住民たちは自由に土地を使うことに慣れていたため、新しい移民の私有に対する考えがよく解りませんでした。なので、インディアンたちは土地からの恵み、つまり移民の庭やそこから収穫されるものは、自分たちのものでもあると思ったのです。
 その結果、移住民は自分たちの生活を守るために、カリフォルニアのインディアンを事務している監督者に連絡をし、ポモインディアンたちは盗みをしていると不満を言いました。
 その特別区域は1866年まで10年間ほど続きました。貧しい作物、盗み、基金の横領、特に白人による土地への侵略、などが結果この特別区域の放棄を導きました。メンドシーノインディアン特別区域にいたボブ・ウィンは、「1861年の初め、区域の監督者は区域を見捨て売ることを企てていた。」と言いました。さらに、「正式には1866年まで区域は閉鎖されなかった。区域が調査され公に売られるまで3年もあった。」とも言っています。彼らは長い間そこで、不自由な生活を強いられていたのでした。閉鎖されるまでの数年間、区域では、移住や離散、病気や集団殺戮が起き、メンドシーノ地域のインディアンの数を悲劇的に減少させました。

メンドシーノの簡単な歴史〜 Edit

 1849年か1850年、William Kasten(ウィリアム キャストン)の帆船はメンドシーノ付近の海に沈没し、ビックリバーの河口に押し流されてしまいました。それから彼は、メンドシーノの南東に簡単な丸太小屋を建てそこに住み始めました。一年後、彼は誰か他の人がやってくる前に、メンドシーノの土地の権利を自分のものにする契約書を書きました。彼はビックリバーの浜を、『希望の港』と名づけました。
 1850年6月26日、二本マストの貨物船フロリックがメンドシーノから3マイル北に行った、今はCabrillo(カブリロ)灯台が建つ場所に座礁しました。この船はボストンで経営されていた中国貿易船で、中国からの『価値ある荷と商品』を、ゴールドラッシュの起きていたサンフランシスコに運ぶためのものでした。座礁したフロリックからの生存者が南に行ってしまうと、それを見計らってインディアンたちは、ボートを使ったり泳いだりして船から荷を集めに行きました。集められたものを見て彼らは、フロリックの難破は彼らへの恩恵だと喜びました。けれど結局その船の難破が、彼らの平和で独立した生活を壊していくのです。
 その時、Jerome B. Ford(ジュロム ビー・フォード)は、Bodega Bay(ボデガ ベイ)で材木と穀物の工場を経営していたキャプテンStephen Smith(ステファン スミス)のパートナーでした。
 スミスはフロリックの難破の話を聞くと、サンフランシスコの仕事仲間であるHenry Meiggs(ヘンリー メッグス)に連絡をし、フォードを北へ送りました。フロリックから何か価値ある船荷を見つけるためです。
 フォードは、材木業者でした。彼は、サンフランシスコに丈夫な材木が必要であることに鋭く気付いていました。
 その頃、サンフランシスコではゴールドラッシュで人口が大きく増加し、急速な都市化の中で、壊れやすい木製の小屋では絶えず火事が起きました。
 そんな中フロリックの荷を探しに行ったフォードが見つけたもの、それが、壮大なレッドウッドの木々だったのです。
 彼が発見したものを企業家、また土地の開拓者であるヘンリーに報告すると、ヘンリーはE.C.Williams(イー・シー・ウィリアムス)を製材工場を購入するため東に送りました。もともとその工場はボデガベイで使われる予定のものでしたが、報告を聞いて、ヘンリーはこれをメンドシーノで使うことにしたのでした。それからヘンリーは、フォードを再び北へ送ります。
 工場を建設する良い場所を見つけさせるためです。フォードはキャストンから100ドル払って、工場を建てる土地を購入しました。 土地を手に入れたフォードはそこで、機械と男たちを運んでいる船Ontario(オンタリオ)を待ちました。ようやくオンタリオがメンドシーノに到着したのは1852年7月19日のことでした。
 そうして始まったレッドウッド製材工場はとても栄えました。メンドシーノには、色々な場所から人々が工場で働くためにやってきました。森へ行って木を切る人、それを工場まで運ぶ人、製材する人、そして木材をサンフランシスコへ運ぶ人たちです。町のリーダーたちはみんなメンドシーノの中心部に住んでいましたが、他の人びとは、フィユリータウンと呼ばれる東に上がった場所、または東に下がった場所ポータギンのアパートに住んでいました。そこにはたくさんの違う文化が同時に存在していました。メンドシーノには多くの中国人もいました。サンフンランシスコのゴールドラッシュで大多数の中国人がカリフォルニアにやってきたためです。彼らは、工場ではコックとして働き、町の中では白人のために仕事をし、アワビを乾かしたり洗濯物をしたりしていました。
 年を経て、メンドシーノはいくつか名前を変えました。インディアンは昔メンドシーノを『Buldam(ブルダム)』や、『Booldam(ブルーダム)』港の岩、や、大きな川、といった意味で呼んでいました。
 そこで選択されたのが『Bull Dam or Big River』と言う名でした。その次の名は、キャストンがここに来た時名づけた『Point of Good Hope』、希望の港、それから『Big River』、『Mendocino City』、そして最後に『Mendocino』へとなりました。
 そうして栄えたメンドシーノのレッドウッド製材工場は、1900年に入っても続きました。森の中ではねじジャッキの代わりにドンキーエンジンと呼ばれる補機が使われ、木材を運ぶのには雄牛たちから機関車へと変わりました。巨大な木を扱うこの仕事には常に危険が伴っていましたが、人々は安い賃金で長い間、ここで働きました。
 けれど1929年の大恐慌の影響で、建物の値は急激に低くなりました。その結果、工場は1934に閉鎖されることになりました。
 1936年に起きた港湾労働者のストライキで、工場はその後2年だけ再開されましたが、1938年、工場は永久に閉鎖されてしまいました。
 世界第二次大戦の影響は、この北沿岸にはあまり及びませんでした。軍に出される人もいましたが、戦争のための産業も必要となったからです。戦争が終わると、カリフォルニア州は大きく変化しました。人口は減少、建物の価値は下がり、土地の値段も低くなりました。メンドシーノの町は、1950年に入っても未発動のままでした。
 そんな中、57年に大きな出来事がありました。世代を継いで地域の新聞編集者をしていたAuggie Hesser(アッギー ヘッサー)が『この土地は永遠に代金なしで公共の場とされる』と規定を作って、今は『Hesser Drive』として知られている広大な土地を州に寄付したのです。
 アッギーの祖父William Hesser(ウィリアム ヘッサー)はその土地を百年ほど前にWilliam Kelley(ウィリアム ケリー)から買っていました。Hesser Driveはメンドシーノの太平洋岬を北西へと囲むようにしてあります。この道が公式に道路としてされたのは1960年のことでした。そしてその土地は、メンドシーノ岬公園とされ今もたくさんの人が訪れています。
 Jennie Zacha(ジョニー ザチャ)とBill Zacha(ビル ザチャ)は1959年、小さな土地を購入しアートセンターの活動を始めた人物です。彼らはメンドシーノに多くのアートや音楽を生み出しました。彼らの活動はメンドシーノを明るくさせ、そして何より人々を引き寄せました。
 これらの出来事は、メンドシーノを生き返らせました。意気消沈していたメンドシーノは再び活気を取り戻したのです。工場を始めた中心人物たちの家は、今もメンドシーノに多く残っています。岬公園は散歩としてもいい場所で、海の景色を見るのにも最適の場所です。アートセンターは絵画や写真などといったアートが見学できます。メンドシーノの歴史には大きな波が多くあります。
面白いのは、男たちの働き場だった製材工場の町が長い年を経て、今は静かな休日を過ごす恋人や家族為の観光場所となっていることでしょうか。

〜Red Woods〜 Edit

 レッドウッドと言う名の木を知っていますか。メンドシーノから一時間半ほど東に行ったレッドウッド国立公園に、『ヒュペリオン』と呼ばれる世界一背の高い木があります。この木の全長は378.1フィート(約115.2m)。大阪の通天閣より13メートルほど高いです。この世界一高い木が、レッドウッドと呼ばれる木々の一つです。 変化の激しいメンドシーノ地域の気候の中で、最も発達し、そして最も大切な自然資源は、背が高く厚みがあり、光沢のない赤黒い常緑木――レッドウッドです。レッドウッドは通常360フィート(約110メートル)を超える高さまで育ち、地球上でもっとも背の高い種類の木です。けれどこの木々は背が高いばかりでなく、その直径は8メートルほどもあります。極端な気候の中で彼らは1500年以上も生きます。この壮大な木々は一般的に、カリフォルニア州Montereyやオレゴン州の南で育ちます。しかしその地方のレッドウッド分布面積は20マイルの幅しかありません。しかしメンドシーノ地域ではその分布面積は倍の40マイルにも広がっています。その理由として、沿岸近くの森を切るようにしてある多くの狭い谷と、台地、そして海から発生した霧が30〜40フィートまで陸へ上がってくるからです。
 霧はレッドウッドの木々にとってとても大切な役割を持っています。この巨大で育ちの早い木々は、大量の湿気や水分を必要とするからです。秋、冬、そして春の初めは、ここ北沿岸の秋冬時期の雨によって水分を蓄えられます。しかし、長い乾いた夏にレッドウッドの木々たちが生き残ることは、全て霧にかかっているのです。
 レッドウッドの密集した繊細で柔らかな葉は、『霧の掃除機』などと空想の名をつけられました。木が水を必要とするため、空気中の水滴をこの葉が捕えるからです。そしてその水滴を蒸発させる前に、葉は根へ湿気を与えるため地面に落とします。そうしてレッドウッドの木は夏を生き延びるわけです。レッドウッドの木によって利用される霧は、約55インチ(139.7センチメートル)とほぼ等しい量にまでなります。「レッドウッドは霧が流れるところでしか育たない。」それは昔からこんな言葉が伝わっているくらい、レッドウッドと霧の関係は深いのです。
 レッドウッドの厚く繊維状で火に耐久性のある皮は、山火事から木を守っています。たとえ木が火事などで破壊されても、その幹の周りを囲うようにして新しい芽が生えます。
 レッドウッドの森には『妖精の輪』と呼ばれる切り株があります。切り株となった一本のレッドウッドを、いくつものレッドウッドが囲うよう立っているためこんな名がつけられました。建物の材料としてのレッドウッドの木は、とても用途が広く、耐久力があることで知られています。レッドウッドは虫や腐敗に対抗する特性を持ち、また、赤みがかった茶色はとても綺麗です。
 けれどそんな能力を持ったレッドウッドの丸太は今日、とても高価な種類の木としてみなされています。良い点として、レッドウッドの巨大な丸太は他の木々よりも、材料へ変えるのに量がいりません。それでも高値なのは、新しいレッドウッドの木々が虫や腐敗に対抗できる能力を失ってきているからです。これは少なからず森への人間の侵入が影響しています。レッドウッドの木々は、昔に比べ相当数が減ってしまいました。レッドウッドの発見をまるで宝の山のように喜んだ人々が、その木々を切り倒し、建造物のための材料にしたからです。これは、人間の手によって切り倒される前は自由に、まるで空を目指すかのように、高く、高く伸びていた、レッドウッドの木々の話でした。

〜Ford house〜 Edit

Ford house(フォード ハウス)は1854年、Jerome Ford(ジュロム フォード)とMartha Ford(マーサ フォード)のために建設され、今日観光客の案内所、また、メンドシーノ岬公園の一部となっています。
  この家の展示物の特徴は、2作の手のこった模型です。1つはメンドシーノに工場を作るため、木材や人々を運んだ船の模型。もう1つは1890年代のメンドシーノの町の模型です。ぜひ見学してみてください。それではこの家の歴史を簡単にご説明しましょう。
 〜中国からの船荷をたくさん積んだ船が沈んだ、というニュースがサンフランシスコに届いたころ、Jerome Bursley Fordは北の沿岸に沿ってその噂の難破船(Frolic)を探している最中でした。けれどJeromeは難破船に関するものを何も見つけられませんでした。しかしこの地でJerome がお宝船の代わりに発見したのもまた、お宝といえる価値のあるものでした。それが――Redwood trees――レッドウッドの森だったのです。
 1852年ころ、サンフランシスコは金の発掘地帯として栄え、そのため人口が増加。その結果としてサンフランシスコで働いていたきこりたちは、みんな追い出されてしまいました。
 Jeromeが彼の大発見をBodega(ボデガ)港で製材工場を経営しているHenry Meiggs(ヘンリー メッグス)に報告すると、Henryはさっそく組み立て式工場と、そしてホーン岬で準備を整えている船を購入するため、東へE.C.Williams(イー・シー・ウィリアムス)を送りました。レッドウッドの製材工場を作るためです。それからHenryは工場にふさわしい場所を探すようにと、Jeromeをメンドシーノへ戻らせました。
同じとき、彼はキャプテンDavid F. Lansing(デイビッド エフ・ランシング)やきこりたち、それから機械装置も、『Ontairo』という船でメンドシーノに送っています。
 1854年、JeromeはMartha Hayes(マーサ ヘイス)と結婚するためにコネチカット州へ出発しました。彼は自分がいない間に、帰ってきてから妻と一緒に住める家を建てるようにと、Williamsに言っていました。メンドシーノに建てられた2つ目の家です。彼は23歳の花嫁をつれて、1854年の7月4日にメンドシーノへ戻ってきました。
 そのMarthaが家へやってきて驚いたことが2つあります。1つは、家にたった2人しか女性がいないこと。もう1つは、キッチンが地下にあることでした。家自体は、窓から差し込む光が美しく海もとても壮大に見えましたが、キッチンには半分の窓枠しかなく、昼も夜もろうそくの火を灯さなければなりまんでした。働く女性たちにとっては、決して環境のいいキッチンではありませんでした。それから2年後にようやく、家の東側に、キッチンとダイニングルームが設けられたのです。
 JeromeとMarthaは6人の子供を授かりました。3女のSusan(スーザン)を除いて他の子たちはメンドシーノで生まれ、6人全員ともメンドシーノに住んでいました。
1889年、OaklandでJeromeは亡くなりました。子供たちに良い教育を受けさせるためにとサンフランシスコの方へ引っ越してから17年経ったときでした。
それから百年の年月が流れ1972年、アメリカ政府はFord houseを含んだその土地を、カリフォルニア州メンドシーノ岬公園としました。
 Ford houseが政府によって再建されたのは1980年。その後展示物が加えられ、83年の8月に初めて、Ford houseは自由に見学できる家としてオープンしました。〜

〜Kelley house〜 Edit

 Kelley house(ケリー ハウス)はWilliam Kelley(ウィリアム ケリー)とその家族が住んでいた家です。家には古くからの記録文書や1880年代のメンドシーノの写真などがたくさん残されいます。家を見学するとメンドシーノの変化や歴史がよく解ります。
 それではKelley houseの歴史を簡単にご説明しましょう。
〜 William Kelleyは31歳のときにメンドシーノへやってきました。彼はカナダのPrice Edward Island(プライス エドワード アイランド)で1821年に8人兄妹の長男として生まれました。
 彼がカリフォルニアにやってきた目的は金を発掘するためでした。1850年にその目的でサンフランシスコへやってきましたが、街は人で溢れ、誰もが金を求め、彼が想像していたのとはだいぶ異なり、Williamは好きになれませんでした。
 それから彼はSacramento River(サクラメント リバー)に沿ってBenecia(ベネシア)という街へ行き、そこで船大工としての仕事を手に入れたのです。
 彼はそこから、メンドシーノに製材工場を造るための備えや荷を積んだ船に乗って、1852年7月19日、メンドシーノへの港へやってきました。二本マストの中型帆船『Ontario』の大工として雇われたのです。
 それから彼はメンドシーノで小売業を行い、そして製材工場の一部のオーナーにもなりました。彼は町や人々のためのチャリティー活動に積極的なことで知られ、みんなから『町の創立者』と呼ばれました。
 WilliamがCardigan(カーディガン) Price Edward Islandで生まれたEliza Lee Owens(エリザ リー オウェンス)と結婚したのは1855年のことでした。彼らが結婚して1年経ったとき、彼の両親がメンドシーノへやってきました。しかし両親は宗教生活ができないところでは暮らせないと断言しました。そのためWilliamたち家族は、たった8人のメンバーの小さな教会を開きました。Presbyterian教会です。そこからメンドシーノで宗教の動きが始まりました。
Ukiah通りのBaptist教会は1894年に建てられました。深い信仰者であったElizaはいつもバプチスト信仰の教会がほしいと言っていたので、Williamが彼女のために建てたのでした。Elizaは他者をたてる性格で、いつも人々を幸せにできる仕事を探していました。カリフォルニアでの田舎暮らしにも慣れてきていたElizaにとって教会での仕事はとても合っていたのです。うわさによるとそこで彼女はオルガンを弾いていたといいます。Presbyterian教会でオルガンを弾くことは禁止されていました。
ElizaはBaptist教会で念願の人々を幸せにする仕事を手に入れました。教会をいろいろな行事に役立てました。彼女の亡くなった1914年でその教会での活動は終わりましたが、Elizaは人々に、気前がよく優しい人として覚えられています。Baptist教会は今はヘルシーフードのお店として建ち、Elizaが残した寛大さと忠誠心の記念物でもあります。
WilliamとElizaは4人の子供を授かり、Williamは1895年12月5日数ヶ月前から苦しんでいた病気で亡くなりました。
Kelley houseは1975年に外側の修理が行われ歴史的な家としてオープンしました。〜

〜Masonic Hall〜 Edit

 Masonic Hallは(マソニック ホール)はメンドシーノの目印とも言える建物です。昔はフリーメーソン〈博愛・自由・平等の実現を目指す団体〉の集会所として使われていました。現在はメンドシーノ唯一の銀行となっています。
 それではMasonic Hallの歴史を簡単にご説明しましょう。〜 Masonic Hallを建設したフリーメーソンの組織は、数世紀にわたってメンドシーノに存在していました。組織の一番の狙いは、仲間同士の絆を深めること、また、交流の中でそれくらい人の役にたてるか、ということでした。監督者でもあったEric Albertson(エリック アルバートソン)は、Masonic Hallのトップにある像を作った人物でもあります。彼はビックリバービーチで巨大なレッドウッドの木から、あの像を作りました。
 1855年の7月3日、11人がMasonic Hall建設のために集められ、11月4日には初めての会議が開かれました。Ericは組織の中で、敬われるべき人物と名づけられました。
 1865年12月30日、彼らはWilliam Hesser(ウィルリアム ヘッサー)により譲渡された土地に集会所を建てるか建てないかの投票を行いました。結果、建設が決まり、次に彼らは建設の監督者を決めなければいけませんでした。そこで1866年の2月24日に、Ericが建設のための1000ドルの契約書を授与されたのです。そして、同年の11月27日、真新しいHallで初めての集会が認可されました。
  Masonic Hallの一番上にある像はメンドシーノで最も知られている目印であり、この像を見るためにやってくる人もいます。けれどこの像の本当の意味というのは、組織によって隠されてきました。彼らは人々に「ホールの上の像はフリーメーソンの儀式で崇められるものとして使われていた。したがってその真意は組織の人間以外は知ってはいない」とだけ言っていた。しかし1989年12月3日のLA新聞でWilber Wade(ウィルバー ウェイド)によって、像の真意は表明されました。折れた円柱、時の翁〈時の擬人化:大鎌と砂時計を持つ〉、本を前にして歎く処女は、全て哀悼の象徴です。フリーメーソンは、組織以外の人には組織のことを秘密にしなければいけませんでした。なので、ある男性はこの像全体の意味を、「時間、頑張り、忍耐は何でも成し遂げられる。」とだけしか言いませんでした。
 「あの像は本来はあそこにあるべきではない」。Fran Lewis(フラン ルウィス)はWilberと同じ新聞の中でそう言いました。「あれはフリーメーソンの信用と信仰に関わるものであって、公の場で他の人に見せていいものではない。」
 やがてフリーメーソンの組織はMasonic Hall管理するお金がなくなったため、銀行に貸し、今もそのまま銀行として使われているらしいです。〜


Last-modified: 2012-04-16 (月) 13:55:45 (1868d)

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